大正11年8月2日、大阪生まれ。神戸高商(現・兵庫県立大学)を卒業後、日本綿花(現・双日株式会社)に入社。関東軍に重歩兵として従軍後、フィリピンに転戦。復員後、将来を模索。 昭和32年、大阪千林に「主婦の店ダイエー」第1号店を開業し、日本最大の流通企業集団に育て上げた。 昭和63年には神戸市に流通科学大学を創設。ダイエーは会長と社長を兼任。大学では学園長、理事長を務めた。日本チェーンストア協会会長、臨教審委員、経団連副会長を歴任。勲一等瑞宝章受賞。
終戦後の日本に、「価格破壊」を標榜して「主婦の店ダイエー」を立ち上げて登場し、消費者主体型の流通システムを築き挙げ、日本の流通革命の旗手として流通再編に大きく貢献した。日本で初めてCEO(chief executive officer・最高経営責任者)を名乗った人物でもある。
2013年8月27日、ダイエーは、かつてはライバルであったイオングループの子会社となった。その年前、日本で初めて小売業界での売上高一兆円を達成し、創業者中内がその後、流通業界からは初となる経団連副会長を勤めた頃のダイエーの「栄華」を知るものにとっては正に今昔の感があるかもしれない。
中内の評伝『完本 カリスマ 中内㓛とダイエーの「戦後」』の著者である佐野眞一氏は、その「ちくま文庫版」のプロローグで、彼をして「”戦後最大の成功経営者“という栄誉を一身に集め、晩年はその評価とは百八十度反対の”戦後最大の失敗経営者“という烙印を押され」た人物であると評している。しかし、中内の側近であった恩地祥光氏が、その著書『昭和のカリスマと呼ばれた男 中内㓛のかばん持ち』の中で、「戦後裸一貫から身を起こし、流通業を基軸として第一次産業から第三次産業に至るまで日本経済全体に大きな影響を及ぼし、かつ生活者の意識や価値観をも変革した中内さん、こんな経営者はもはや出ないであろう」と述べているのもまた事実である。こうした不世出の経営者がどのようにして終戦後の日本に現れ、流通革命を起こして去っていったのか、その軌跡を追ってみたい。
中内㓛は、大正11年(1922年)に大阪で小さな薬屋を営む家に生まれた。神戸高等商業学校(現兵庫県立大学)を卒業し、太平洋戦争最中の昭和17年(1942年)、日本綿花(現双日)に就職したものの翌年に応召され、戦地に赴くこととなった。昭和19年(1944年)の夏頃まではソ満国境守備隊として、零下度という極寒の旧満州ハルピンの地に駐屯していたが、米軍の反攻作戦が急になった頃には、一転して連日度の灼熱地獄のフィリピン戦線に移動させられている。まさに極限から極限へ…。その後、“戦後最大の成功経営者”から一転して“戦後最大の失敗経営者”となった中内の生きざまを象徴しているかのようである。フィリピン・リンガエン湾で敵の攻撃を受けて死を覚悟した時、頭を過ったのは「もう一回、腹いっぱいすき焼きを食べたい」という思いであったというが、この時の思いが、後のダイエーのスローガン「良い品をどんどん安く、より豊かな社会を」の考えに繋がっているとも言われる。
帰還した中内が戻った神戸の街は、米軍機による空襲を受け、一面の焼野原となっていた。しかし、実家の「サカエ薬局」は奇跡的に焼け残っており、家族も両親・兄弟とも無事であった。焼土となった神戸の街をさまよった中内はそこで驚くべき光景を目にした。三宮ガード下に繰り広げられる熱気と喧騒のこもった闇市(ブラックマーケット)である。「一体、この商品はどこからどう湧いて出たものなのか。中内はその流通メカニズムの不思議さにひどく興味をひかれた」(「完本カリスマ」より引用)。普通の人間であれば、驚いただけで終わってしまうところだか、ここからが流通の革命児たる中内の真骨頂が発揮される。父の経営する「サカエ薬局」を手伝いながら、自らも三宮の闇市でブローカー商売を始め、昭和23年(1948年)、薬事法の改正によって路上商いが禁止されたのを機に、友人と「友愛薬局」を設立、業者相手の闇商売に転じた。その後、医薬品の現金問屋「サカエ薬品」、製薬事業の「大栄薬品工業」を経て、今日の「ダイエー」の原型ともいうべき、「主婦の店ダイエー」が大阪の千林駅前に誕生したのは、昭和32年(1957年)9月のことであった。当初の「主婦の店ダイエー」は、薬品を中心に、化粧品や雑貨品を扱う、今日のドラッグストア的な店であった。ダイエーが繁盛したのは、何よりもその「安さ」に理由があったのだが、近隣の薬局の反攻に会い、ジリ貧状態となっていった。そんな時、打開策として取り入れたのが、菓子や缶詰・調味料などを中心とした食品の取り扱いであった。この千林店での、セルフサービス、ディスカウント、レジスター方式は、日本におけるスーパーマーケット発達の原動力となっていく。この千林店での成功に好感触を得た中内は、翌年、自身の原点の地神戸に第2号店を開き、ここからダイエーの快進撃が始まって行く。ナハミートの設立による大量の肉牛の供給(これをもってして「肉のダイエー」との評判を得た)、昭和38年(1963年)の流通センターを併設した西宮本部社屋の新設と(株)フクオカダイエーを設立しての九州進出。そして、東京オリンピックの行われた昭和39年(1964年)には、東京進出を果たし、昭和42年(1967年)には、日本チェーンストア協会を設立して、中内は初代会長に就任している。
こうした拡大路線が消費者に支持されていった大きな要因のひとつが、中内のダイエーが標榜した「価格破壊」ではなかろうか。既存価格を破壊して商品を安く消費者に供給することを使命と考えた中内は、当時100g当たり70~100円〜であった牛肉を39円で販売したといわれる。価格破壊は、食品に限らず多岐の商品に及んだため、こうした安売り価格を巡って松下電器産業(現パナソニック)や花王石鹸(現花生)等のメーカーと軋轢を起こし、その間の事情は、当時の流行作家、城山三郎の『価格破壊』、邦光史郎の『小説ダイエー王国』などの小説の題材ともなっている。この「価格の決定権をメーカーから消費者に取り返す」ことを信念とした中内は、度重なるメーカーからの圧力に屈することなく貫き通し、まさに流通業界に革命を起こした男といっても過言ではない。
昭和40年代~50年代前半、さらに、ダイエーの快進撃は続く。昭和43年(1968年)日本初の本格的な郊外型ショッピングセンターの香里ショッパーズプラザが、翌昭和44年(1969年)には、“首都圏レインボー作戦”の第1号町田店がオーフプンした。昭和47年(1972年)3月には東証一部に上場、同年8月には売上高3000億円を達成して三越を抜いて小売業日本一となった。さらにファミリーレストランのフォルクス(1970年)、コンビニエンスストアローソン(1975年)の開店と、別事業への進出が相次ぐ。そしてついに、昭和55年(1980年)創業から年目にして、小売業界初の売上高一兆円を達成するに至った。しかし、この一兆円達成をピークに、昭和58年(1983年)からは3期連続で赤字となり、その後の「革」などの効果で黒字に回復するものの平成9年(1997年)の決算では経営危機が表面化し、中内は平成13年(2001年)の株主総会で退任し、以後は私財を投じて設立した学校法人中内学園学園長に専念することとなった。このように記述すると、中内の晩年は佐野眞一氏のいうように「戦後最大の失敗経営者」でしかなかったように思われるが、ここに中内の残した特筆すべき二大事があることを忘れてはならない。それは、阪神淡路大震災発生時の俊敏な対応と、流通科学大学の設立である。
時系列が前後するが、平成7年(1995年)に起きた阪神淡路大震災における中内の取った行動は後世に語りつがれるほどのものであったという。
「流通」は人間社会のLife lineとしての役割を担っているという中内の哲学が如実に証明された出来事でもあった。正確を期すために、中内の側近であった恩地祥光氏の著『昭和のカリスマと呼ばれた男 中内のかばん持ち』から拝借して引用したい。(一部割愛)『その日、中内さんは田園調布のご自宅で5時49分の臨時ニュースを見て、瞬時に動いた。7時には浜松町オフィスセンターに災害対策本部を設置し、400人近い応援部隊を神戸に送り込むことを決めた。8時から行われる予定であった定例のミーティングを中止し、物資を神戸に運び込むための陸海空の運搬手段の確保に入った。都市交通機関が機能停止する中、ヘリコプターで神戸ポートアイランドについた救援部隊の面々は(中略)二時間かかって被災現場に到着した。(中略)ちなみに当時の村山内閣が対策本部を設置したのは午前9時であった。さらに、中内さんは「ダイエー、ローソン問わず、開けられる店はすべて開けるように。開けられないとしても明かりをつけろ。カップラーメンなどの食料を送るから、路上でもいいから安く売るように」と指示を出した。』この中内の哲学は、中内が去ったダイエーにも生き続けており、東日本大震災の時にも、東京のダイエー本社は地震発生後迅速に対策本部を設置して対応に当たっている。もうひとつの特筆すべきこと。それは、「流通科学大学」の創設である。悲惨な戦争体験をした中内は、流通科学大学の「創設の想い」の中で本大学を創設するに至った想いを次のように述べている。「かえりみれば、かつての戦争は資源の取り合いが大きな要因となっていました。第一次大戦は石炭、第二次大戦は石油。私たちは、悲惨な戦争を三度と起こさない仕組みを、世紀に向かって考えていかなければなりません。流通を通して、人、もの、情報を交換し、互いに理解しあえば、戦争なんて手段はとれなくなります。流通科学大学は、開かれた大学として、また科学としての流通を、解明していこうと考えた結論です。」最後に、中内が1997年に、『歴史読本』という歴史雑誌に、坂本龍馬の神戸海軍操練所に準えて流通科学大学設立の想いを語っている文章を引用して結びとしたい。「私が育った神戸の街の先人たちは、後世に美田ではなく学問を残すべきだと考え、そのことにカネと努力を惜しまなかった。それが神戸独自の気風として、今に受け継がれている。私もそれにならって神戸市の西区に流通科学大学を創設したが、こうした気風の先駆けになったのは、勝海舟の奔走で開設され、坂本龍馬が塾頭をつとめた神戸海軍操練所だったといえるのではないか。(中略)坂本龍馬という人物は、素晴らしいビジネスセンスの持ち主だったと思う。自主独立の精神にあふれ、既成概念にとらわれたところがなかった。尊皇攘夷の嵐が日本中に吹きまくっている時代にありながら、龍馬は外国との交流を考えて海運貿易に注目する一方で、武家社会では卑しまれていた「利」というものを積極的に評価し、経済的な利益こそが社会を動かす大きな要因であることを、きちんと認識していたようだ。(中略)神戸海軍操練所が閉鎖されてから123年後の昭和63年春、私が創設した流通科学大学が開校の日を迎えた。神戸独自の気風にならい、流通という視点から体系化した新しい経済学を後世に残すとともに、二十一世紀の日本の流通業を支えていく人材を育てたいと考えたのが、そもそもの発端だった」。
写真協力/流通科学大学・中内記念館